ごまめの歯ぎしり

1号ちゃん、無事耳カットと首輪装着完了。
家に戻って速攻リリース。無責任かもしれないけど、リリース!


ケージの中ではちょっと手が近づくだけでものすごく威嚇していたので
扉を開けたら脱兎のごとく走り出るかと思えば、ビクビク周りを見ながら低い姿勢でどこかに去っていった。
怖かったんだよね。
考えてみたら月曜日に収容されたのだから、病院も含めてほぼ一週間も狭いケージで過ごしていたことになる。
そりゃ、攻撃的にならないはずないよ。
捕まってすぐにわかっていれば何日も臭いメシ食わせなくてもすんだのに、とか
宿代だって余計に払うこともなかったのに、とかあれこれ考えているうちにだんだん腹が立ってきた。


そもそも保健所から引き出すのになぜ「手数料」がかかるのだ?
収容中の必要経費として、1日いくらはまだ理由がわかる。
でも「手数料」って、それはどういう名目のものなのか?
どこかに明文化されているのか。知らないのは私が不勉強なだけなのか?

他所はどうあれ、うちの市はまだ『保健所への持ち込み=殺処分』というレールが敷かれている。
持ち込む人には、「自分じゃイヤだから代わりに殺しといてよ」と明確な目的がある(ないとは言わせない)。
ならばその人達から「殺処分代行手数料」を徴収すればいい。
もし運よく殺処分されずにすんだら返金すればいい。
今のご時世、さまざまな代行業者が商売しているじゃないか。
金を惜しんで保健所への持ち込みが減って、代わりに捨て犬捨て猫がべらぼうに増えて大迷惑、となっても
それは人間の自業自得だ。
世界は人間だけのものじゃないんだよ。


「保健所としても殺処分はしたくないのです」などといいながら
殺処分をさせないために協力するひとから徴収することに誰も疑問を持ってくれないんでしょうか。
頼んでもいないのに好きで引き出すんだから、それは負担して当然と思われているんでしょうか。

まあね、大体において行政は「取れるところから取る」が基本ですからね。
収容された動物の行く末を気にかけたり
自分のに縁のある動物ではなくともその命を救えないことに罪悪感を感じてしまうようなバカなお人好しは
「手数料がかかります」と言われれば払ってしまうから取りっぱぐれはないですよね〜。
そんな行政さんは、再開発で大きな規模の“地域振興ふれあい拠点”という立派なものを建設中だけど
そういうところに動物愛護センターをいれるべきだと思う人もいないのかね。
状況を知ってもらうに恰好の場所だと思いますけどね。



なんか・・・納得いかない。
by quilitan | 2014-09-28 23:12 | ぶつぶつまめつぶ | Trackback | Comments(0)

あんたバカぁ!?

夕方、保健所から電話が来た。
(最近電話にはちょっとビクビクです)

「耳カットのない白黒の猫が収容されているのですが・・・」

白黒?

最近来始めた白黒はいるが、月曜に持ち込まれたという話なので
昨日もゴハン食べに来てたあの子ではない。
今回も別口の野良か、と思ったらメールで送られた写真を見て

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1号ちゃんじゃん・・・・・・・・・

また捕まっちゃったのか・・・・・・・あああもおぉぉ!!!
どんだけ保護器が好きなんだよ〜〜!!


閉庁ギリギリの時間だったので、センターから保健所に運んでもらって
引き取ってきましたよ。
ええ、6000円も払ってね!!
引き取り手数料が3500円、センターの宿賃が一泊500円で月曜から今日までなので都合2500円。
合わせて6000円。

 月曜に連絡貰えれば・・・・・収容動物情報にも載ってなかったのに・・・・・ブツブツブツ・・・


まあ、とにかく前回しそびれた耳カットだけはしておこう。
ついでに首輪もはめてしまえ!(コビのが1個余っている)
ナンチャッテ飼い猫だ。
同じ場所に放すとまた捕まるかもしれないから別の場所に放せ、と母は言うが
よその猫のテリトリーに新たに雄猫を放り込むなんて私にはできません。
また捕まったら、とは思うが・・・・

だいたい、猫が迷惑なら畑や庭に来たときに水でも撒いて追っ払えばいいじゃないの。
嫌な思いをするところには猫は近づかないよ。
あとは予防策。
うちのすぐご近所は、塀の上にはソフト鼠返しみたいなのを付けて
門扉の所はくぐれないように塞いでいる。
入れたくないと思うからそうしている、正しい処置です。
それをわざわざ罠仕掛けて捕まえて、保健所に持っていくという手間を惜しまないのは
ずいぶん粘着質な人だな、と思う。
猫としては美味しいご飯に釣られて捕獲器にはまっても
そこで痛い目にあっていないから多分学習しないんだろうなあ・・・・
それともやっぱり1号ちゃんがおバカちゃんなのかなあ・・・・・

先日も大田区で、見つかっただけでも47匹の猫を殺しまくった男が逮捕されて
その言いぐさがいいじゃないか、「住民の餌やりで増えた野良猫が迷惑だった」。

確かに無責任に餌をやるのは良くない。
でも最初に野良猫作ったのは人間だということを忘れていませんか。
今だって「猫の避妊去勢手術でお金かけるなんてもったいない」と言う人はいくらでもいる。
そういう家の猫はたいてい外に出ている。
ボランティアさんが頑張って捕まえて手術受けさせたり里親探したりしていても
追いつかないのは当たり前。
一人が3,4匹のフリーな猫を作ることはできるが、3,4匹を一人では受け入れられない。


ひとまず、明日は病院。
1号ちゃん、5日も臭いメシ食って、丸々はしているけどなんか荒んでいる感じ・・・・

頼むからもう捕まらないでええ!!
by quilitan | 2014-09-26 20:01 | | Trackback | Comments(0)

合いの季節にちょうど良いお気に入りのパジャマの膝がちょっと破けてきた。

掛け布団カバーの縁がちょっと破けてきた。


買い換えればいいだけのことだけど、これがどちらも絶妙の肌触りでしてね〜、
“これなら取り替えてもいい”と思えるものになかなか巡り会えない。
もちろんちゃんと探せばあるんだろうけど・・・

相変わらずごまかしながら使っています。
寝間着とか布団て無意識の状態で使っている時間が長いから
つい何でもいいやになりがちだけど、でも実際は長時間使っているわけなので
なるべく妥協したくないな、なんて思うわけです。

そうやってこのシーズンをこれで通してしまうのかと思うと
それもちょっと哀しいんだけど・・・

とりあえず探さねば。
by quilitan | 2014-09-25 09:47 | 雑録 | Trackback | Comments(0)

めぐり逢わせのお弁当

今日も大入りスカラ座インド映画ウィーク。


なんというか・・・「意外」な映画だった。
同じインド映画でも、先日の「マダム・イン・ニューヨーク」とはうって変わってシリアスな小品。
「マダム・・・」は色々あったけど、なんといっても裕福な家の“奥様”の物語だった。
だいたい家族でアメリカに何週間も行けることからして庶民ではないよね。


こちらではまた別の、湿気の多いリアルなインドの暮らしが見える。
すし詰めの電車、人と車と自転車で飽和状態のぬかるみ道、街の色合いはくすんで暗い。
そして、予告やタイトルから
「お弁当の届け間違いから手紙のやりとりが初まり、心通わせるようになった二人の物語」
などというほのぼのしたものを想像していたのが、これが実はかなりヘビーな物語だったのだ。
ここで出てくる妻は、夫との関係が冷え切っていて、生活だってそんなに豊かじゃない。
サリーが「マダム・・・」のよりうんと地味目だった。
味を工夫してお弁当を作ったのだって、夫との仲を少しでも修復したいからだ。
で、そのお弁当が届けられた方も、退職を控えた無愛想な男やもめ。

最初は、名も知らぬ同士が偶然知り合って他愛ない手紙のやりとりをするのは微笑ましかったけれど
愛情のこもったお弁当が届いていない夫に愛情が伝わるわけもなく
(でも届け間違いがわかってもそのまま手紙でのやりとりを選んだのは彼女自身)
彼女は冷たいままの夫婦仲をどうしようもできない無力感と諦めから、
男は男で今の淋しい生活を束の間癒してくれる相手を得たことから、
お互い「ここではないどこか」を手紙の相手に期待するようになる。

けれど、お伽噺はそうは続かない。
男の方が自分の老いという現実に先に気付いて、身の丈の自分の世界に戻る。
でも彼女は、父親を看取った母親が口にした言葉でおそらく自分の将来が見えたんだろう。
それは母親自身の結婚生活に対する嫌悪と後悔だった。

そして、男が「お伽噺の続き」から降りたのを知っても
一度解き放たれた心はそれまでの反動もあって男とは逆にリアルの一歩を踏み出そうとする。
それは現実を知らないからだ、といえるかもしれない。
社会に出てもいない女性が一人で〈ここではないどこか〉に行って幸せになれるわけもない。
でも、なれるかもしれない。可能性は0ではないのだ。


深読みしすぎかもしれないが
これは別の意味での女性の解放の映画なのかな、と思った。

いずれにしても「めぐり逢わせのお弁当」というタイトルから想像される恋愛ものではない。
ちなみに原題は「Lunchbox」です。

邦題って難しい!!



それにしても、インドのあのお弁当配達のシステムってなんなの!神なの!?
届け間違いを指摘された配達人が
「届け間違いなんて絶対にあり得ない!
 ハーバード大学からこのシステムの完璧さを研究に来たのだ!」と鼻息荒く怒ってたけど
何人もの集配人やら配達人やらがかかわって、大量のお弁当を混み合う電車に積み込んで
それをまた個人に配達するなんて、間違えない方がおかしいでしょ普通!
さすがインド。 すごすぎる。
by quilitan | 2014-09-22 21:05 | 見る | Trackback | Comments(2)

スカラ座で終映ギリギリセーフ!これはずいぶん人が入ってました。
インド映画人気あるなあ。
・・・かくいうわたくし、実はインド映画は初めてです!
でもこれはコテコテの “踊る” 系ではないけどね。
それでもちょっとは踊るけど・・・



昔ながらのお嬢様がそのままお嫁さんに収まったような古風でお料理上手の奥様であるシャシ、
夫と子供たちの世話と家事でシャシの宇宙は回っている。
夫も子供も、自分たちは外の世界をどんどん吸収しているのに
妻であり母であるシャシだけが「役目」の中にはまり込んでいることになんの疑問も持たない。

そんなシャシが、姪の結婚式のために家族より一足先に一人アメリカに行くことになり
英語がわからないという壁の大きさに叩きのめされ、一念発起して内緒で外国人向けの英語学校に通う。
仲閒を得たことで別の世界との繋がりを持ち、英語の習得という形を取りながら
彼女のそれまでの小さな世界から少しだけ踏み出していくというもの。

これ、“少しだけ”というのがミソです。


作りとしてはとてもシンプル。
登場人物もプロトタイプで、悪くいえば表面的ではある。
妻を「ただの料理上手の主婦」として扱う夫。
英語のわからない母親を軽視する子供。
NYの英会話学校のクラスメイトの取り合わせにしても
東南アジアはそれなりに、ヒスパニックもありがちなキャラで
唯一ヨーロッパ人であるフランス人はこれまた恋愛絡みのために存在しているようなものだ。
でも映画自体がそんなに複雑な作りではないし、一番重要なのはシャシの心の流れだから
へんに凝るよりも、適度に抑えたのは正解だったと思う。

それにしても、フランス人ならみんな女性は恋愛対象としてみる、という設定も偏見だけど
シャシに一目惚れしたフランス人のクラスメイトがまぁうっとうしいこと。
シャシは英語を勉強したくて一生懸命クラスに通っているのに
彼が一人だけ恋愛脳でシャシに接するのには苛ついたなあ。
夫から「ウチの奥さんは料理だけ」みたいな言葉しかかけられてなかったシャシにとって
自信を与えてくれる存在としての役割なんだろうが・・・
まあその辺がプロトタイプってことだ。
ただ、好きだという気持ちを言葉や態度でしっかり相手に伝えるフランス人に対して
「インドの既婚女性に面と向かってそんなことを言うのは相手に失礼」と諭す人がいたり
英語学校の教師がゲイで恋人と別れたことを面白おかしく話していたアジア系の男性に
シャシが「傷つく気持ちは誰でも同じ」と言ってみたり
異文化間の思い込みにほんの少し釘を刺すのがいいんだな。


そしてこの映画の良さは、やはりシャシですね。
シャシの言葉が押しつけでもなく説教臭いものでもなく、とても自然な流れで出ていたから。
何より本当に美しい。インド人の顔立ちはもう芸術品だ。
彼女は、確かに夫や子供を優先することに少々窮屈さを感じてはいるけれど
それでも自分の生活を否定しているわけではない。
彼女だって夫を愛していて寄りかかっているのだ。
もしもシャシが「女性は夫や子供のためだけに存在しているのではない」というフェミニズムに傾いたら
そこでこの映画は駄作になってしまう。
おそらく、ああいう普通の主婦の地位向上を謳うにはインド社会はまだまだ重しがありすぎると思う。
だから、この映画が見せているのは“コミュニケーション”なのだ。
せめて一方的な命令下達というのではなく、「あなたと私とお互いに」という第一歩を踏み出す映画。

最後に結婚式でスピーチを求められたシャシを
「妻は英語が喋れなくて」と遮ろうとした夫を制して、拙くも英語で語ったのも
やはり「お互いにお互いを尊重し合って、理解し合って、対等に」ということだった。



フランス人が性懲りもなくシャシに気持ちを伝えるのを聞いた姪が
「おばさんももしかして?」と水を向けたときのシャシの言葉は秀逸。

「恋はいらない
 必要なのは尊重されること」


そういうこと!!


 *****

それにしても別の意味で身につまされる映画でありました。
一事が万事、言葉が通じる通じないだけではなく、習慣も違って
コミュニケーションの取り方がわからない状況に置かれたときの心細さ。
まわりが楽しそうにしている中にぽつんと置いておかれるいたたまれなさ。
コーヒースタンドでの一件は見ていてつらかったよ。
初めて入ったアメリカのカフェで、注文の仕方も商品の名前もわからず、後ろには行列ができ
さらに店員は次々英語でまくし立てる。
サリー着ておどおどしてるんだから言葉がわからないくらい察しろよ、と思ったけど
まあそういうハズレも実際いるわけだしね。
でもその時の、シャシと店員のかみ合わなすぎる会話に場内からは笑いが起こっていて
そこって笑うところなのか?と不思議に思ったのは私だけなんですかねえ。
とっても胸が痛んだものですが・・・・・



さて、明日は「めぐり合わせのお弁当」を見るぞ!

インド映画を見るとお腹が空いてしまうなあ。
ラドゥ食べてみたいな〜。
by quilitan | 2014-09-21 21:07 | 見る | Trackback | Comments(2)

持ち込まれた飼い猫の一件では色々余計なオマケが付いた。

無事家族の元に帰ったのはいいが、飼い主さんと偶然会った母が聞いてきた話は

  ものすごくわかりにくい場所(それがセンターですが)に行く羽目になったので
  保健所で引き取り手続きをした時に「なんであんな所に入っていたのか」と聞くと
  「鳴き声がうるさいから」といわれた

まさか、という気持ちもあったけれど
私自身は仕事中で、直接引き取りの経過を知ることができなかったので
本当にそういうやりとりがあったのかどうか確認するために保健所に問い合わせたところ

 
  保健所としては、保健所自体に動物を保管するスペースはないので
  飼い主さんからすぐに連絡がない場合はセンター預かりにせざるを得ないこと、
  飼い主さんにはセンターにいるということは伝えてあるし
  引き取りの際にも飼い主さんには経緯を了解してもらって
  決してそのような発言はなかったこと 

と、すぐに答が返ってきた。
保健所の人からすれば〈心外なことを〉という気持ちだったんだろうな。
そういう空気がひしひしと感じられましたよ。
私としても、1号ちゃんの時にとても真摯な対応してくれたのでまさかとは思ったが
もしかしたら別の担当者だったかもしれないし
なにより実際に引き取りにいった人の言葉というのはとても重みがある。
何も知らない人が聞けばそれを疑いはしないでしょう。
保健所から猫を引き出す、という経験はそう誰もがすることではないからなおさらだ。
だからホントはどうなの?という気持ちだったわけです。

私が思うに、飼い主さんからすればわざわざ猫を持ち込んだ人に対する憤りと
(変わり者一家でまったく地域と関わらない人らしい)
飼い猫だと一目でわかるのにそれをそのまま引き取った保健所に対する不満と
たまたま運悪く連休になってすぐに引き取れなかった苛立ちに
センターの場所の不便さと環境の悪さが重なったことで文句も出ようというもの、
(センターの状況に関しては明らかに役所側が責められるべきものであると思う)
そしてそれに尾ひれが付いてこのような形になったのではないかと。

でも、何につけ広まるのはこういう捌け口的な言葉だということも現実なのだ。
今回のことももしちゃんと事実を把握している人がいなかったら
保健所への不信だけが一方的に募る。
他方の言い分もきちんと知る必要がある、という当たり前のことをこういう時は忘れてしまうのだ。
特に相手が役所だったりすると、もうそれだけで「相手が威圧的だったに違いない」という
バイアスがかかりやすい。
しかもおばちゃんネットワークは広がり方もバイアスのかかり具合も強烈だからね。
「〜なんだってよ」「〜らしいよ」でどんどん話が広がるのだ。
ちゃんと事実の堰を置いておかないと困ったことになる。



本当に伝言ゲームって怖い。
これに限らず、情報の管理は心してやらないと恐ろしい。

そして・・・つまるところ飼い猫を外に出すのが間違いのもと、なんだけど・・・
難しいところだ。

まあ、ご近所に偏屈者がいるというのもマイナス要因だけどね。
by quilitan | 2014-09-19 11:30 | | Trackback | Comments(0)

ガラじゃないのに

1号ちゃんの件のとき保健所で、庭猫ズに餌やりと避妊去勢手術をしていることなどを話したものだから
もしまたうちの近所から猫が持ち込まれたら連絡します、ということになった。
図らずも猫ボラもどきになって、少々腰が引ける。
もちろんできることはしてあげたいけど
でももし保健所から引き出してもうちではまたリリースするしかないのにどうすんだ?
願わくば誰も捕まらないでいて、と祈っていたのですが・・・・

先週、ついにまた持ち込まれたとの連絡が入ってしまった。
1号ちゃんか、はたまたお母ちゃんか、と思ったら
首輪をした人慣れしたコだというから明らかに飼い猫。
同じ人間が、しかも捕獲というより敷地内で捕まえたので持ち込んだという話。
正直いって仕事中で身動きが取れなかったので、耳カッターズじゃなくて良かったよ〜〜!

うちの近所で猫飼いさんの家が結構あるのは知っているが
私自身が親しいわけではないので、そこはヌシ的な母の存在に頼って
おばちゃんコネクションであたってもらったらすぐに飼い主さんに辿り着いた。
あいにく昼間連絡が付かなかったために、週末と連休が重なって
余計な日数を臭いメシを食う羽目になってしまった猫だったが
連休明けに無事に家に帰れたということでひと安心。
ヨカッタヨカッタ。


それにしても・・・・・・・・・・

先日、〈猫を飼っている方にお知らせ〉 なんて猫かぶったタイトルで
ようは「飼い猫は外に出さない」「不妊手術の徹底」などなど
“飼うんだったらちゃんと守ってよね!”的な内容の回覧板が回ってきた。
どうやら「外猫に迷惑している」という人がいたらしい。
うちでは「あそこの人(捕まえて持ち込んだと思われる人)が言ってるんだ」と
仮定の仮定で話が出来上がっておりますがね。
猫が嫌いな人もいて当然だし、野良猫が迷惑かけることも多いだろう。
庭先でケンカされたら私だって追っ払います。
書いてあることはその通りなので文句はないが(コビに関してはちょっとバツ悪いが)
暗に“守らないなら捕まえた猫はどんどん連れて行きますからね”と言っているようで
なんか唐突でいやったらしい感じがした。
   
   ちなみに、野良猫のウンコよりお散歩わんこのほったらかしウンコの方が
   目に付くんだけどそっちはどうなのよ?といいたい気持ちがムラムラムラ・・・
   まあ猫はもともと目立つところにはしないけど。

何と言っても一度は捕まった1号ちゃんがフリーで生活してますしね。


それもあって、これはちょっと注意喚起くらいはしないといけないと思ってます。
 近所に保健所持ち込みの常連がいること。
 保健所は持ち込まれた動物は飼っていようが野良だろうがすべて収容すること。
 その収容情報が公開されていること。
こういうのちゃんと周知させないと。
ある程度の年配の人はそんなのわからないんだから役所ももっとちゃんと広報してほしいものだ。

首輪をしているからといってすべて可愛がられている現役の飼い猫という保証はない。
それでも《持ち込み → 即センター収容》という単純な手続きは
本当にどうにかならないものかと思う。
そりゃね、そこで個別の案件にいちいち指導をしていたらお金もひとも足りないだろう。
でも中核市の自治体なんだから、そういう部分を端折らないでちゃんとやってください。


***

HPにはちゃんと書いてある(リンクでは飛びません)↓

http://www.city.kawagoe.saitama.jp/www/contents/1099380909781/index.html

でも、くどいようだがこういうサイトを見る習慣のない人はたくさんいるのが現状。
ご近所のおばさんにも「どこを見ればいいの」と聞かれたことがある。
そして、「責任持って最後まで」「保健所は最後の手段」と書いておきながら
持ち込まれたら断れないというスタンスってどうなんだよ!???

と行政のいい加減さを思うわけですね・・・・
by quilitan | 2014-09-17 23:14 | | Trackback | Comments(0)

「あしたのジョー」再び

原画展をきっかけに、もう一度読みたくなったので文庫本をポチりました。
あの密度の濃い絵を文庫サイズで見るのには抵抗があったのだが
(実際少々厳しいものがあったね・・・)なにせもう本が飽和状態なんで仕方なく。


久しぶりに全巻読み直して、忘れていることもずいぶんあった。
力石戦を区切りに第一部・第二部と分かれていたのも覚えていなかった。
でもやっぱり力石との一件を境にジョーが一皮も二皮も剥けたのだ。
ジョーの内面まで深く描かれるようになって、それで表情や雰囲気も変わったのだ。
力石の減量地獄は原作者と漫画家の意思の齟齬から偶然生まれたものらしいが
それがあったからこそ、作品自体がものすごく進化したのだと思う。
偶然という名の必然だったんだなあ、とつくづく思います。
そうでなければ、名作にはなったかもしれないが「少年漫画」の域は出なかったろうな。

そして、先日の展覧会にあるように時代を巻き込んで社会現象にまでなった理由も
改めてわかった気がするのだ。

『おれはおれのやりたいようにやる!
 いわれたとおりの道を歩いてたまるかバカヤロー!』

くどいほど、何度も何度もそう叫び続けてバカ正直に突進して闘っていくジョーの姿は
体制の押しつけに反発する気持ちを代弁しているように思えたんだろう。
いや、実は今だってそういう空気が巷には満ちているのだ。
もしかして、だからこそ今さらの「ジョーの時代展」なのか?
いずれにしても、とにかく〈ブレないかっこよさ〉に尽きる。


でも白木葉子という人がどうも私には不可思議なままだ。
ファム・ファタール的な位置なんだろうけど・・・憎まれ役とも言い切れず
やることとその存在感の大きさにちょっと違和感を感じてしまう。
ジョーの目線があるからこその存在価値、という気すらする。
最後にグローブを渡したことも、彼女がそれを託されたという気持ちより
ちゃんとお別れをいったジョーの男前度にやられました。

原作者はバリバリ男目線なんだけど、ちばてつやさんが女性をちゃんと描ける方なので
そのへんでちょっと分離しているように感じたのかもしれないな。



何はともあれ久々に漫画で満腹感を得ました。
いいものはいつまでたっても何があっても、色褪せない!!!
by quilitan | 2014-09-11 09:59 | 読む | Trackback | Comments(2)

2歳のはぴば

キッカちゃんは今日がお誕生日です。
2歳になりました!
雨の田んぼで鳴いていたコがもう2歳・・・なんだかもっと長い時間いるような気がするなあ。

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我が家ではツチノコが一体いるので相対的に細身に見えますが
標準体型・・・のはずです。


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新入りも増えて、なかなか力関係が微妙な今日この頃ですが
これからも元気でね!
by quilitan | 2014-09-09 22:14 | | Trackback | Comments(2)

“あした”のために

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「あしたのジョー」展ではなく
「あしたのジョー、の時代」展。

でももちろんメインは「あしたのジョー」の原画展示。

以前、ちばてつやさんの原画展を見たときに
そのあまりの線の美しさに見とれてしまったもんです。
今回はジョーの原画だけですが、堪能いたしました!
それにしても、5年ちょっとの連載期間でジョーの変化たるや
何か取り憑いていたとしか思えないくらいだ。
石田国松か茜ちゃんか、というくらい幼いちびっこジョーが
なんという愁いと狂気(と色気)を帯びていくことか!
この変化は本当に恐ろしいくらい。
人の成長をとことん凝縮して見せつけられる気がした。

まわりの人との絡みでカラフルだったジョーの世界が
闘うことによって孤独になってどんどん色をなくしていく感じがした。
最後の“真っ白”も
「燃え尽きた灰」というよりは全ての色が抜け落ちた姿ともいえるんじゃないか、と。


これが連載されたのは1967年末から1973年。
もちろんもう生まれてましたけど、さすがに自分自身に戦争の影響はないので
「戦後」という言葉を使うのはいささか抵抗があるが
今考えてみればオリンピックを終えたその勢いで次は万博、と走っていたわけで
戦後からの第二復興期ともいう時期だったんだろう。
「あした」がすごく重みを持って待たれていた時代かもしれない。

敗戦というマイナスの位置から20年で世界レベルに駆け上がるという急激な膨張が
あっちもこっちも異常にエネルギーを高めていた時期だったのだとあらためて思う。
そしてこの描き手、原作者・漫画家いずれも戦争を通過してきたのだから
その影響がないわけがない。
原画展というだけでなく、「その時代」をつけずにはおれないということだ。
社会の空気がジョーにも影響しただろうし
ジョーの物語がまた起爆剤として働いたということなんだろう。

小田舎の子供ではあっても、一応その時代にじかに触れてきた身なので
アングラ芸術やアヴァンギャルドなパフォーマンスも違和感はないけれど
でもやっぱりジョーはジョーで完結しているのである。
私はあくまでも漫画読みなのだ。


なので、原画を堪能して満足。
そしてこの勢いでつい文庫版をポチった。
昔単行本を借りて、途中で止められず夜っぴて一気読みしてしまったっけ。
読み直すのが楽しみです。


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Stand up ならぬ Pop up JOE の入場券。
by quilitan | 2014-09-07 21:00 | 見る | Trackback | Comments(0)

猫と雑文ときどきお絵描き