重箱の隅つつきます
2017年 06月 15日
とある研修にて。
配布された手引き冊子に書かれたことを担当者が読み上げて補足説明するといったもので
その内容に何ら特記すべきことはなく、よくあるオリエンテーション的なもの。
気になったのは、読み上げる人が途中でつっかえるそのポイントだった。
それは別に難読漢字でもないし、むしろ日頃使う用語でもあるはずなのに
そこ?そこで止まるのか!? と。
これはもしかして読める読めない以前に語彙として頭に入っていないのか?
たとえば「難読/漢字」を「難読漢/字」のような切り方をしてしまうのはそういうことか。
きっと長文を読んだりしない人なんだろうな〜、などと
余計なこと考えて研修終わり。
作業の手間も思考する機会も必要性も、ヒトの代わりに便利なモノがやってくれるお陰で
身の回りには「しなくて済む」ことがどんどん増えてきた昨今。
それ自体はありがたいことで、私もその恩恵に与るもののひとり。
コミュニケーションもマークひとつ、単語ひとつで済むご時世なんだから
楽な方へ流れていくのは当然だ。
でも面倒くさい「読み書き」は、たとえ何が便利になろうとなくてはならないものなのだ。
なぜなら言語は思考伝達の重要な手段だから。
「読める」から見も知らぬ他人の考え方も知ることが出来るし
「書ける」から自分の考えを形にして伝えられる。
勿論「語る」ということも重要だけど、正しく「語る」にはさらに洗練された言葉が求められる。
現に、そういう〈堅苦しい言葉で延々と説明している小冊子〉が仕事の道具として使われるのだ。
甘いものや柔らかいものばかり食べ続けて虫歯だらけになるように
思考を置いてきぼりにした頭は内側からじわじわと溶けていくイメージしかない。
社会人として「これは知らなくてもよし」とされるのはどのあたりまでなのだろう。
広い範囲で見ると意外とハードルは低いのかもしれない。
でもいいのかなあ、これで・・・と言葉フェチなわたくしはちょっと悶々。
by quilitan
| 2017-06-15 07:41
| 考える
|
Trackback
|
Comments(0)